立ち昇り、表れて、霧消する「ここにあった景色」
400年前の江戸、150年前の明治、100年前の大正、90年前の昭和、当たり前のことだが、私たちの多くはまだこの世に存在していなかった。
であれば我々は、数百数十年前の見知らぬ景色を扱われたとしても、本来それらに郷愁を抱くはずもない。しかし、本作『古風Ⅱ』に私たち日本人が感じる感情は、紛れもなく「懐かしさ」に他ならないだろう。もしくは、あなたが日本国外のリスナーであれば、「日本」と聞いて真っ先にイメージする和の風景を感じ取るのかもしれない。
冥丁は« LOST JAPANESE MOOD »をテーマに楽曲制作を行ってきたアーティストだ。本作はこのテーマにおける最終作で、前作『古風』完成後に収録されなかったトラックを元に、前作の世界観を押し広げる形で作られた続編である。
本作で表現されているのは、今ではビルに、あるいは道路に、あるいは住宅街に、あるいは畑になったそこに「かつてあった風景」、もしくは、「朽ちながらも今なお形をとどめる風景」である。
博物館か美術館のガイド音声と思われるサンプリング音声とお囃子を使った「八百八町」は賑やかな江戸の風景を描き出す。艶やかさを感じさせるトラックの中、客引きとも恨み節とも感じられる女性たちの声をサンプリングに用いた「吉原」では遊郭の華やかさと遊女たちの複雑な心理が描かれるようだ。「忍」ではクラックル・ノイズを使ったビートとサンプリングされた口上が交じり合って、忍者の躍動感と摩訶不思議さを感じることが出来るだろう。「茶寮」は彼が祖母の家で眺めていた水墨画からインスピレーションを受け、そこに茶室の印象を結び付けた作品だと言う。小さく静謐な茶の湯に揺蕩う空気を、木管楽器をフューチャーしたシンセサイザーの音色が表現している。
現代我々が日本の音楽として耳にする楽曲の多くを、冥丁は「架空の東京の音楽」だと断じる。明治維新以降、そして戦後に欧米から流れ込んできた音楽を元に発展してきた現代のポップス。日本という土地固有の要素が、これらの音楽にどれだけ溶け込んでいると言えるだろうか。
これは音楽だけに留まらず、日本人の戦後の価値観にも当てはまるように思う。かつて連綿とつながれてきた日本人らしさというのは終戦をもって断絶し、西洋化社会の到来とともに換骨奪胎されていった。ただし、この日本らしさとは今日目にする、SNS空間上での空騒ぎ的な愛国主義では断じてない。ここでいう日本人らしさとは、土地と暮らしから醸成されてきた死生観や倫理観のようなものだ。
私たちが今まさに立ち、住み、暮らすこの土地には、かつてここにいた人々の営みが確かにあった。冥丁はかつてそこにあった環境、私たちの祖先が過ごしてきた暮らしや、彼らが紡いできた日々の感情を、サンプリングという手法で客観的に吸い上げ、提示する。
私たちが忘れ去ってしまっただけで、今なお過去の記憶は土地に刻み込まれているものなのだ。冥丁は音楽というフォーマットを用いて、この土地に宿る過去を、現代に蘇らせようとしている。